「結婚できない」と「結婚しない」の違いから考える大事なこと2つ

「〜できない」と「〜しない」は「〜ない」という点に共通項がありますが,(当然のごとく)そのニュアンスに違いがあります。
「〜できない」には,「何らかの壁によって,〜することが妨げられている」というニュアンスがあります。たとえば,「結婚できない」というとき,何らかの理由(壁)によって結婚することが妨げられているということを暗に示しています。
一方,「〜しない」には,そのような壁によって〜することが妨げられているというニュアンスはなく,むしろ,自ら,あるいは,流れに身を任せて,その方向(〜しないこと)に進んでいるというニュアンスがあります。たとえば,「結婚しない」という場合,自らの意思で結婚しないことを選んだ,あるいは,流れに身を任せて結婚しないことになった(し,それを受け入れている),ということです。
些細な違いかもしれませんが,そのニュアンスから大事なことを2つ考えることができます。1つは壁の存在,1つは前提となるルールです。以下では詳しく考えてみます。
壁の存在
たとえば,「結婚できない」と我々がいうときを考えてみます。
どういうときにそれを言うかというと,「お金がないから」「一人暮らしが楽しいから」「コミュニケーション能力が低いから」など,いろいろな理由はありますが,いずれにせよ,何らかの理由によって結婚することが妨げられている状態を指す際に「結婚できない」と言います。
もちろん,「一人暮らしが楽しいから結婚しない」と言うこともありますが,この場合は「結婚することが妨げられている」というニュアンスは消えています。「〜しない」の場合は,自ら,あるいは,流れに身を任せて,その方向(〜しないこと)に進んでいるというニュアンスに変わっています。
そう考えたとき,「〜できない」では“妨げられている”という点がポイントになっています。
では,何に妨げられているのか,というと,当然,壁(何らかの理由)です。壁が存在するから妨げられているわけです。すなわち,「〜できない」と我々がいうとき,それに関わる「壁」の存在を暗黙のうちに前提としています。
そして,その壁としてどのようなものを想定するかは,いろいろありえます。たとえば,結婚できない壁として「お金のなさ」を考えたとしても,その「お金のなさ」の内実は「低賃金の職場」かもしれませんし,「ギャンブル癖」かもしれません。
別の言葉で言えば,社会構造のせいかもしれませんし,個人の能力のせいかもしれません。
しかし,ここで念頭においておかなければいけない大事な点は,出来事の理由を考える際,人間は情報がないとその人のせいにしてしまいやすいことです(これを基本的帰属の錯誤と言ったりします)。
たとえば,「結婚できない」という出来事を考えてみます。
「結婚できない理由」はいろいろありえます。たとえば,異性と出会う機会がないとか,賃金があがらないとか,家柄の問題とか,それこそ無限にあります。ただし,我々はそのような情報を適切に集めることができないし,集めたとしてもその理由が正当ではないと判断すると,その理由を無視したりします(これを確証バイアスと言ったりします)。
すると,どうなるかというと,一番自分(理由を判断する人)にとってしっくりくる理由である「その人のせい」にします。「結婚できない」の場合は,その最たるものが「コミュニケーション能力」や「常識」です。「あの人はコミュニケーション能力がないから結婚できない」とか「あの人は常識がないから結婚できない」というように考えて,それらを改善することで,壁を取り除こうとします。
しかし,果たして,「個人由来の壁」(その人のせい)を想定することは適切なのでしょうか。たとえば,結婚できない理由として「コミュニケーション能力」や「常識」を想定することは適切なのでしょうか。
決してそうとは言えないと私は考えています。
その理由の1つは,「個人」と「社会」は便宜上(あるいは言語上)分けて考えていますが,実際の我々という存在においてはそれらは決して分けられないためです。
私たち「個人」は,当たり前ですが,「社会」なくして存在できないですし,「社会」も私たち「個人」なくして存在はできません。すなわち,「社会」と「個人」という二分法はあくまで私たちの理解のための概念であり,本来その両者は渾然一体とした一つのものです。
したがって,「個人由来の壁」というものは原理上ありえず,たとえば,「結婚できない」状態を改善するために個人由来の壁にアプローチするというのは疑似問題(本来はありえない問題を勝手に作り上げている)といえます。この点については,またいずれ詳しくお話ししたいと思います。
別の理由は,「〜できない」と「〜しない」のニュアンスの違いから考えられる大事なことの2つ目「前提となるルール」と関わっています。
前提となるルール
「〜できない」というとき,「〜したい」や「〜することが通常である」がルールとして前提とされています。たとえば,「結婚できない」であれば,「結婚したい(のに結婚できない)」や「結婚することが通常である(のに結婚できない)」のように,「結婚できる」あるいは「結婚する」がルール(基準)とされ,「結婚できない」はルール違反(基準からの逸脱)として考えられています。
もちろん,「〜しない」というときに,「〜する」がルールになっている場合もあります。たとえば,「連れ合いが家事をしない」というときは,「家事をする」がルール(約束事)になっていると言えるでしょう。
ですので,ここでは表現方法(〜できないと表現するか,〜しないと表現するか)によって,一律に前提となるルールが異なると言いたいわけではありません。あくまで,「〜できない」という場合には,「〜できる」が通常の約束事として強く前提されているということです。
では,「〜できる」というルールはどうやって決められたのでしょうか。たとえば,「結婚できる」あるいは「結婚する」というルールはどうやって決められたのでしょうか。
確かに1970年代前後は「皆婚社会」と言われ,ほぼ全員が結婚している時代でした。しかし,その時代の方が特殊であると指摘されており,現代に存在するような,「(全員が)結婚できる」あるいは「(全員が)結婚する」というルールは,あくまで一時代的な,あるいは,たまたま生じたルールでしかなかったといえます。そのルールは誰もが当然視するような普遍的なルールではありません。
このようなルールの偶然性は,「コミュニケーション能力」や「常識」が「個人由来の壁」(その人のせい)として適切ではないことの理由でもあります。
「コミュニケーション能力」とは要するに,「コミュニケーションAは適切で,コミュニケーションBは不適切であり,それをきちんと判断できる能力」として考えることができるわけですが,その「適切/不適切」はコミュニケーションにおいてはあらかじめ決められるものではありません。たとえば,ある人には容姿を褒めることが適切かもしれませんが,別の人にとっては不適切かもしれません。
コミュニケーションおけるルールは偶然性にあふれており,そのようなルールを共同で構築/運用していくことが関係性を築くということです。
しかし,「コミュニケーション能力」という視点は,コミュニケーションにおける普遍的なルールを一方的に決め(Aが良いコミュニケーション,Bが悪いコミュニケーション),それができる場合は「コミュニケーション能力が高い」,それができない場合は「コミュニケーション能力が低い」というようにラベルを付けます。
すなわち,ルールの偶然性を無視して,あたかも普遍的なルールがあるように制定し,ルールを遵守できるかどうかで個人を色分けする,というのがコミュニケーション能力という視点です。常識も同様です。
しかし,普遍的なルールというのはありえません。どこかのタイミングで勝手に制定され,多くの人がたまたまそれに合意しているというだけです(ルールと言われたから合意せざるを得ないという場合もあると思います)。
したがって,「コミュニケーション能力のなさ」や「常識のなさ」は,(本当は普遍的でない)普遍的なルールというありもしない条件のもとでの話であり,決して「個人由来」ではないわけです。
恋愛や結婚,婚活には,このような恣意的な普遍的なルールがたくさんありますが,決してそれは普遍的でもなく,そのルールを前提として「個人」を色分けすることはできないと考えています。
まとめると
恋愛や結婚,婚活では悩んでいる人がたくさんいます。そして,その悩みの多くは,恋愛・結婚・婚活の(偶然的な)ルールに縛られていることから生じています。
しかし,そのルールはルールなようであって,ルールではありません。なぜなら,どこかのタイミングで勝手に制定されているからです。ですので,遵守する必要は基本的にはありません。
ですが,ルールがルール化すると,それを破ることは一人ではなかなかできません。なぜなら我々は「一人」では生きていないからです。
では,どうするか。仲間を作ることです。周りにいなければ,少なくとも私がいます。
もし,恋愛・結婚・婚活の(偶然的な)ルールに縛られて苦しんでいる人は,ご連絡ください。どうすれば恋愛・結婚・婚活をルールから解き放ち,「楽しいもの」(遊び)に変えていけるか,一緒に考えましょう。
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