補足:『「心を測る」のイベントに参加してみた』を読んで

補足:『「心を測る」のイベントに参加してみた』を読んで

6月3日(土)に『心は測れるのか──心理尺度の適切な利用を考える』というトークイベントに登壇しました。2022年12月に刊行された『心を測る──現代の心理測定における諸問題』が、めでたく2刷になったということで、「その記念に刊行記念イベントでも」と思い、荒川出版会主催で(金子書房さんにご協力いただきながら)イベントをしてみました。

当日バナー From 荒川出版会

当日はいろいろとアクシデントもあったのですが、いちおう無事に終わったのではないかと思います。測定観の歴史や、心理測定の背景にある考え方など、日本ではあまり紹介されていない話が下司さんによってわかりやすく説明されていて、とても学びになるイベントだったなと思います。(ただ、『心を測る』を読んでもらっていることが前提になっている部分もあり、初見だとなかなか理解しにくい箇所もあるかと思いますが、それでもゆっくり観れば理解できるのではないか、と信じています。)

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同イベントには、小杉考司先生もご参加されていて、感想も書いていただきました。本当は当日、いろいろとお話ししたかったのですが、なかなかそれをするための余裕が私になく残念に思っていたので、こうして感想をもらえて大変嬉しい限りです。

せっかくですので、補足もかねて少し応答を、と思います。

補足したいこと

下司さんと私は「測定だけ」の話をしていたのではなく、「心と測定はセットで考えるべきもの」という話をしていたつもりでした(少なくとも私はそうですが、たぶん下司さんもそう考えているのでは、と推察しています)。私のイベントのハンドリングが悪く、「測定だけ」の話をしているように見えたのだと思いますが、まさに小杉先生のブログにあるように「こころが物理学の対象のように静的で外力なしに変化しないもの、と考えるのか、確率変数のように統計的傾向は持つけど毎回異なる出目を持つものとみなすのか、あるいはベルグソンのように?量的なものではなく質的なものでしかないと考えるのか。それによって、測定できるかどうかだけでなく、数値化・妥当化の手続きも違う。プロセスだけ(測定だけ)取り出して可能かどうかもあったもんじゃないよなぁ。」ということを話していたつもりでした。

また、「今回も話の途中で、「同じ対象についての測定論になってる?」というところが多々あったように思う。」という見えも、測定だけの話をしているように見えたことに一因はあると思いますが、それと同時に、下司さんが紹介する測定観(とその背景にある心観)に私が賛同できなかったことにも大きな一因があるように思っています。

私が下司さんに問うていたのは、「その測定で測定されている心は、もはや私たちが知りたい心ではないのではないか」という問いでした。つまり、あなたの想定(紹介)している「心」は私にとってはもはや心ではない、という違和感の表明です。これはむしろ、「測定対象として何を対象にしているか」について共通の理解があるからこそ出てくる違和感です。そして、下司さんと私とで、そのような共通理解がある程度できてしまっていたからこそ、「測定だけ」の話に見えてしまったり、「話している対象がずれている」ように見えてしまったりしたのかなと思っています。反省点です。

妥当性の話も感想では触れられていますが(「COSMINのように医療的効力と照合できるならそういう妥当化もあるし、それがしたいわけじゃない人もいるわね。」)、これもまさにそのとおりで、この件については、第31回パーソナリティ心理学会大会で発表しました(「妥当性および妥当性確認は、あなたが妥当性をどう考えるか次第です」という話)。

ちょっとわからなかったこと

というわけで、おおむね、ご感想に賛同していますが、2点ほど、違和感がありました。

まず、以下の点について。

「測定が統計の話になっちゃう」というのも、心理学者的なセルフハンディキャッピングなスカシ方で、統計の勉強に追われすぎて心のことを考えてないとか、モデルの仮定・前提をわかってないのが問題なんですよ。なかなか由々しきことで、心の研究をしたくて心理学学やってんのに、いつの間にか自分が考えていた心と違っても、気づけないコースワークになってる。

心のことを考えていないとか、そういうコースワークになっている、という問題提起には賛同いたします。ただ、「測定が統計の話になっちゃう」というのが、「心理学者的なセルフハンディキャッピングなスカシ方」というのはよくわかりませんでした。

イベント内で話しました(と記憶しています)が、すごく端的にある側面からみると、測定は「値をつくること」、統計は「その値を数えること」です。だから、測定の話をしているとき、あるいは、しなければいけないときに、統計の話になるというのは、まったく違うことを同じことのように語っているという点で問題ですし、そして、その差異を認識することが重要だと私が思うのは、測定を考えることは心を考えることにつながるからです(「心と測定はセットで考えるべきもの」という話)。この値がどう生み出されているのかを考えるのが測定の話ですが、それを考えていると必然的に、その値の元となっているものについて考えざるを得なくなります。つまり、測定について考えることは心について考えることと切り離せません。そして、それは(測定)モデルの仮定・前提を考えることでもあります。下司さんがご紹介されていたように、ある測定モデル・測定観は、ある心観を前提としているため、測定を考えることはその前提をおさえることでもあります。

しかし、心理学では、測定の話を抜きにして一足飛びに「統計を取る」に話がいきます。そうすると、その値がどう生み出されたのかという値の元について考える必要がなくなり、値を処理することに目が向き、統計を取れば「心」が測定されている(あるいは、統計分析によって測定の妥当性が確認できる)とされる。そのため、統計分析が大事にされる(そのようなコースワークになる)。このように、測定と統計を混同すること(測定の話が統計の話になる)は、「心のことを考えていないこと」「そういうコースワークになっていること」とも密接に関わっており、心(の測定)を考えずに心理学ができてしまう一因になっていると思います。

【ついでに言うと、心理学ワールドの「こころの測り方」も、「この新コーナー「こころの測り方」は,心理学においていわば生存意義的に重要な測定の問題をわかりやすくお伝えすべく立ち上げられました。」(新コーナーの立ち上げにあたって)とあるのに、測定の話ではなく、ほとんどが統計と研究手法の話になっているのがすごく残念。】

その意味で、心理学的測定を考える(反省する)にあたり「「計ってしまったものは何か」、あるいは「心を計ると言ってなされた営みは、どのようなものを心と呼んでいたか」が本質なのではないかと。」という小杉先生のお話はそのとおりだと思います(それが私たちが知りたかった心なのかどうかは別にして)。そして、下司さんの最終的なご提案も、そういう筋で理解できるのではないか(極めて簡略化して言うと、心理学的測定とはそういうものであり、それを前提に私たちが知りたい心に近づいていきましょうという話)、と私は考えています。

※ ただ、本当にそういう筋で理解できるかはわからないので、詳細はアーカイブ配信でご確認いただけたらと思います。

しかし、私としては、「測った後で統計をとり、それによってこの値の意味を決める」という方向性は理解できなくはないですが、「心は変動する」という前提にのらないとできないとは思います。個人間で変動するのか、個人内で変動するのか、いずれにせよ、統計分析(具体的には潜在変数理論)の場合、分散がないと分析できないので、そういう心観でいいのか(私がだめだと思っているということではない)、というのは考えなければいけない課題であると思います。

あと素朴に、「心」が値に反映される、という科学的実在論を受け入れがたいとは思います。私としてはこっちの理由で、「測った後で統計をとり、それによってこの値の意味を決める」という方向性に納得があまりいかないなと思います。

2つ目。

その意味でテスト理論は楽しいぞ。数字も意味も分布もハッキリしてるからな!

これも、詳しく書かれていないので詳細はわかりませんが、なぜそう言えるのかわかりませんでした。少なくとも下司さんのご発表はテスト理論も視野に入っていたと思います。そして、そこで話されていたことは、「実際的な意味は漸進的に確認していくしかない」という話だと思うので、(下司さんのご提案を受け入れるのであれば、数字と分布ははっきりしていたとしても)意味ははっきりしていないのではないか、と思います。「全て受け取り手の意味に一元化されるのでは」とも書かれていますが、受け取り手の意味の場合、なおさら、意味がはっきりするというのは難しいのでは、と思ってしまいます。ここらへんはぜひ、小杉先生のお考えをおうかがいしたいところです。

そして、私からすると、この「意味がはっきりする」というのは、ハッキング『偶然を飼いならす』で論じられている人工的な分布の話、すなわち、心理学者が措定した「心」(それは私たちの心とは別物)のように見えてしまいます(実際にそういう話を小杉先生がされているのかはわかりません)。あるいは、『スタンダード学習心理学』第3章で論じられている、基準が社会的に措定されているという話のようにも見えます(繰り返しますが、実際にそういう話を小杉先生がされているのかはわかりません)。

あまり詳細に書かれていないことにつっこむのは揚げ足取り的な感じではありますが、「意味がハッキリしている」という点には疑問が残るのではという点は表明しておいた方がよいかと思い、いちおう書いておきます。

あとがき

長くなりました。いずれにせよ、イベントにご来場いただき、こうやって所感を書いていただき、感謝です。なにか考えるきっかけになったようでしたら、頑張ってトークをした意味があったなと思います。