読書感想|調査されるという迷惑

読書感想|調査されるという迷惑

宮本 常一・安渓 遊地(2008).調査されるという迷惑──フィールドに出る前に読んでおく本── みずのわ出版

『調査されるという迷惑』 from みずのわ出版

「あれでは人文科学ではなくて訊問科学だ」――旅する民俗学者、宮本常一の言葉を受け止めた、フィールド・ワーカーの実践

もう調査なんてできない(なんて言わないよ絶対。とも言いきれない)──本書感想

人文科学において「フィールド」と言われると,民俗学や人類学が思い浮かぶかもしれない。

実際,宮本常一は民俗学者であるし,安渓遊地も人類学者・地域研究者であり,その調査経験にもとづく調査地被害について報告している。

調査地被害とは「調査される側に生じている様々な迷惑・被害の総称」である。たとえば,現地の民族調査というので資料を借しだしたらそのまま返却されなかったとか,調査者が横柄な態度で振る舞うとか,調査に協力したけれど結果の報告がなく何のために協力したのはわからないままであるとか…その例は多数ある。すなわち,「調査」という大義名分(?)のもとで起こる調査される側にとっての迷惑・被害である。もちろん加害者は調査者である。

調査地被害をこのように定義すると,話は民俗学や人類学だけのことではないことがわかる。「調査」と名のつくもの(ジャーナリズムも含めて)はすべて調査地被害の潜在的加害者でありうる。本書はその事実を端的に突きつけてくる。

「調査結果を協力者に適切に報告できていたであろうか?」
「協力者にとって何の意味がある調査だったのだろうか?」
「協力者にとってというよりも,調査者自身のためのものになっていないだろうか?」

「調査というものは地元のためにはならないで,かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く,しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い」(p.34)と宮本は指摘する。はたして自分の調査はそうなっていなかっただろうか。

心理学をしていると「介入」という話がよくでてくる。しかし,「介入」でさえ協力者のためになっていない可能性だってある。「自立」を支援するために介入したことによって,かえって「自立」できなくなることだってある。「介入」すればそれが即座に調査結果の還元になるわけではないし,協力者のためになるわけでもない。(そういう意味で,松井豊『惨事ストレスとは何か』は介入の在り方を考えさせてくれる良書である)

大学で心理学を教えていると,研究法や調査法を教える。もちろん,研究にまつわる倫理的問題として「調査が迷惑であること」も伝える。しかし,「研究法や調査法を教える」ということは,「調査することを進める/勧める」ことと表裏一体であり,はたして本当に「調査が迷惑であること」を伝えきれているのだろうか。伝えるべきは「調査しないこと」あるいは「調査しない調査法/研究法」であるのかもしれない。

本書を読んでわたしは調査するのが恐くなった。あいにくの事情で今後の調査の予定は白紙状態であるが,その事情がなくなったとして,はたして本当に調査してもいいのだろうか。調査できるのだろうか。

少なくともしばらくは「調査」なんてできない。